江戸時代の商人たち 富に繋がる格言

    ここでは、江戸時代の豪商たちの格言を紹介します。
    彼らの言葉の数々には、一族の繁栄や富に繋がる教訓が示されています。

    ここでは、九州の商人や、近江商人、横浜の商人などを紹介していきます。

    目次

    博多商人 – 島井宗室

    出典:Wikimedia, 島井(嶋井)宗室像(雲谷等顔筆、江月宗玩賛

    島井宗室は、戦国時代から江戸時代に生きた博多商人です。
    朝鮮・明との貿易や、大名への貸付けにより、巨万の富を築き上げました。

    戦国大名の大友義鎮・宗麟、織田信長、豊臣秀吉にも近付き、豪商としての地位を築き上げました。

    千利休、古田織部らとも交流があり、茶人としても知られています。

    島井宗室の略歴

    海外貿易で富を築いた島井家

    島井宗室は、博多で酒屋や質屋を営む島井家に生まれます。
    島井家は明や朝鮮とも貿易を行い、多くの財を築き上げました。

    1573年には、博多を支配していた、戦国大名の大友氏や対馬の宗氏らと取引し、軍資金の調達を行うことで、様々な商売特権を得ました。

    1578年、耳川の戦いで大友氏が大敗したことで、大友氏の勢力が削がれ、島津氏が勢力を拡大します。
    大友氏の衰退は、島井宗室の商売にも悪影響を与えます。

    有力な勢力に近付き、商売特権を維持

    1582年、博多の豪商である神屋宗湛と上洛し、織田信長と謁見し、特権を維持しようとします。
    信長が本能寺の変で死去すると、豊臣秀吉に近づき、保護を得て商売を行います。

    1587年、豊臣秀吉は島津征伐によって九州を制圧します。
    島井宗室は、神屋宗湛とともに博多復興を命じられます。

    秀吉が朝鮮出兵を企むと、宗義智や小西行長と協力して渡朝し、戦争回避を試みます。
    しかし、回避することはできませんでした。
    1592年からの朝鮮出兵の文禄・慶長の役では、博多で兵站基地の監督権を任じられ、兵糧米や硝石などの斡旋を行いました。

    関ヶ原の戦いが終わり、1601年に博多が黒田長政の支配下になります。
    島井宗室は、福岡城構築時に多額の資金を献上します。

    島井宗室の格言

    島井宗室の格言を紹介します。

    五十に及候まで、後生願い候事無用候。老人は然べき候。浄土宗・禅宗などは然べき候ずる。

    50歳になるまでは、後生(来世)のことを願うべきではないと戒めています。

    50歳になれば、来世のことを願っても良く、浄土宗や禅宗は信仰しても良いとしています。
    一方で、キリスト教は来世のことばかりを気にするので、良くないと続けています。

    出典:島井宗室遺訓

    弓矢取りの名人は、まず、負くべき時の用心、手立てを第一に、分別を極め、弓矢を取り出さるると承り候。

    戦名人は、負けたときの用心と対策を考えた上で、それから戦を仕掛けるものと述べています。

    勝負するときには、リスクと対策を十分に分析し、それらを踏まえて勝負をすることが重要であるということでしょう。

    出典:島井宗室遺訓

    生中、夫婦仲いかによく候て、両人思い合い候て、同然に所帯を歎き、商売に心がけ、つつましく、油断なきように仕るべく候。

    夫婦仲がいかに良くても、両人がともに思い合って、生計をよく見て、商売に心がけ、つつましく質素倹約することが重要であると述べています。

    出典:島井宗室遺訓

    生中、ばくち、双六、惣別、賭けのあそび無用に候。棊・将碁・平法・うたい・まいの一ふしにいたるまで、四十までは無用に候。何たる芸能なりとも、五十に及び候はば、くるしからず候。

    生涯において、ばくちや双六等の賭けの遊びをするべきではないと、禁止しています。

    また、40歳までは囲碁や将棋、兵法、謡、舞いなどの芸能を禁止しています。

    50歳にもなれば、芸能については親しんでもよいと述べています。

    出典:島井宗室遺訓

    生中、知音候ずる人、商い好き、所帯歎きの人、さし出でぬ人、律儀確かなる人、さし出でず、心持よく美しき人には、深く入魂も苦しからず候。

    以下のような人とは深く親交を深めても構わないと教えています。
    ・知人を大切にする人
    ・商売好きの人
    ・家族に気を遣う人
    ・出しゃばりではない人
    ・真面目な人
    ・気持ちの美しい人

    一方で、以下の人とは深く付き合ってはいけないと述べています。
    ・諍いがちの人
    ・批判が血の人
    ・性根が悪い人
    ・悪口を言う人
    ・陰口を言う人
    ・大酒飲み
    ・嘘つき
    ・役人に摺り寄る人

    出典:島井宗室遺訓

    [PR]


    九州の商人 – 広瀬久兵衛

    広瀬久兵衛は、江戸時代後半の九州の豪商です。
    農業用水や、干拓、新田開発などの地域振興も成し遂げた人物です。

    工事が始まると、自身も移住して毎日のように現場に通い、指揮を取ったいわれています。
    日田市長や国会議員を経た広瀬正雄氏や、大分県知事である広瀬勝貞氏は久兵衛の子孫でもあります。

    広瀬久兵衛の略歴

    博多屋の家督を継ぐ

    広瀬久兵衛は豊後国日田郡(大分県日田市)で、博多屋の三男として生まれます。
    1810年、21歳のとき、兄に代わって家督を継ぎます。
    西国筋郡代役所や諸藩の用達を勤めました。

    1817年、塩谷大四郎が日田代官に着任し、小ヶ瀬井路の開削を支えました。
    筑後川舟運のための中城河岸の設置、天領地域(宇佐市と豊後高田市)の干拓・新田造成などに取り組みました。

    九州の財政改革や、開拓に取り組む

    1830年、40代のときに隠居します。
    1832年には掛屋(現在の銀行)を命じられます。

    1838年になると、対馬藩領の肥前田代や、福岡藩の財政改革にも関与しました。
    1842年には、府内藩(大分市)の財政改革に取り組みます。
    吉兆原・庄ノ原を開拓し、元治水井路の開削するなど、様々な工事を行い、地域の発展に寄与しました。

    広瀬久兵衛の格言

    広瀬久兵衛の格言を紹介します。

    無益にも遣い捨てるはやすく、精出しても得がたきは金銭なれば、出入とも、よくよく慎むべきの主意なり。

    お金を無駄遣いするのは簡単です。
    一方で、お金を得ることは、努力したとしても、簡単に得られるものではありません。
    得がたいものだからこそ、金銭の出入りには注意し、無駄遣いを慎むべきだと戒めています。

    出典:広瀬久兵衛遺訓 (桑田忠親『日本名言辞典』より)

    富み四海を保つとも不死の薬はよもあらじ。されば、かりのやどりにひとしき此の世に生まれて、限りなき欲に惑うは拙なし。

    多くの富を持っていたとしても、不死の薬は入手できません。

    ここでは、仮の宿りのように、「この世に生まれて限りない欲望に惑わされること」は愚かなことだと述べています。

    出典:広瀬久兵衛遺訓 (桑田忠親『日本名言辞典』より)

    義欲の事、人は欲せなき者はあらず、さりながら義に偏き候時は欲をも捨て申すべき事に候

    欲を持たない人はいません。
    だからこそ、自身の考えが、「欲よりも義に傾いた時には、欲を捨てなければいけない」と述べています。

    出典:大分県農林水産部

    近江の商人 – 中井源左衛門

    中井源左衛門は、江戸時代の半ばを生きた、近江の豪商です。
    20両を元手金として、合薬行商から身を興しました。
    商売を大きく発展させ、5.6万両もの資産を築いた人物です。

    また、支店管理のために合資組織を採用し、決算のための「複式簿記」を考案した実績が有名です。
    近代的な経営を行ったといえます。

    家訓である「金持商人一枚起請文」を残し、贅沢を禁じ、倹約と勤勉を説きました。

    中井源左衛門の略歴

    貧しい環境から身を興した

    中井源左衛門は、蒲生郡日野(滋賀県日野町)の漆器の製造販売を営む家に生まれます。
    幼いころは、家が困窮になり、雇われの職人暮らしを送ります。

    1734年、19歳のとき、20両を元手金として、関東で売薬行商を行います。

    産物回しから、金融業、酒造業まで

    数十年をかけて、下野国大田原(栃木県)、仙台や伏見、後野などにも、日野屋の店舗を拡大します。

    産物回しによって、古着や繰綿、生糸、青苧、漆器、紅花などの商品を扱いました。
    また、質屋や大名貸しの金融業、酒造業も営みます。
    1788年には、京都店を出店します

    そして、1794年、79歳のときに隠退します。
    1800年、仙台藩からは商人でありながら「名字帯刀」を許されます。

    [PR]


    中井源左衛門の格言

    中井源左衛門の格言を紹介します。

    欲ふかく、山事・不実の心持ちあらば、一旦、金持ちというとも、ついには、神仏の恵みに洩れ、貧人と成り候べし。

    人間誰しも、欲があるものです。
    ただし、欲が深く、投機的な行為や不実な気持ちがある人間を諌めています。
    そのような人間は、金持ちになったとしても、いつかは神仏からも見放され、貧しくなると述べています。

    出典:金持商人一枚起請文

    始末と吝きの違いあり。吝光は消え失せぬ。始末の光明満ちぬれば、十万億土照らすべし。

    倹約はケチとは異なります。
    ケチで貯めたお金は、すぐ消え失せます。
    ただし、倹約で貯めたお金は、世界中に良いことをもたらすと述べています。

    出典:金持商人一枚起請文

    金持ちにならんと思わば、酒宴・遊興・奢侈を禁じ、長寿を心掛け、始末第一に、商売を励むより外に、仔細は候わず。

    人々は金持ちを妬み、「運があったから、あの人は金持ちになれたのだ」と妬むことがあります。

    中井源左衛門は”それは違う”と言います。

    お金を貯めるには、「酒宴や遊興、奢りを禁じ、長生きを心掛け、商売に励むこと」こそがが重要だと述べています。

    出典:金持商人一枚起請文

    運と申す事の候て、国の長者と呼ばるることは、一代にては為しがたし。二代、三代もつづいて善人の生まれ出るなり。

    中井源左衛門は、金持ちなったのは「運」では無いと述べています。

    一方で、「国の長者」と呼ばれるほどの人物になるには「運」も関係すると言います。

    その理由は、「国の長者」になるには、一代だけで成し遂げることは難しいからです。
    一代で成し遂げられないため、子や孫が継ぐ必要があります。
    「国の長者」になるには、彼らの中で善人が現れることが必要であり、それは「運」も関係するということです。

    出典:金持商人一枚起請文

    二代目 中井源左衛門 光昌

    近江の豪商である中井源左衛門の子として生まれます。

    光昌は、文化人としても知られています。

    中井家の家訓を受け継ぎ、家法「中氏制要」を残しました。

    中井源左衛門 光昌の略歴

    近江商人である中井源左衛門の子として生まれますが、長男ではありませんでした。
    長男の源三郎尚武が29歳で死去したため、光昌が本家を継ぐことになります。

    源左衛門の薫陶を受け、日野屋二代目として商売を広げます。

    また、文人や画家と交遊し、仙台や京都、江戸で書画会を開催しました。
    光昌が中井源左衛門の家訓を受け継ぎ、書物に残したことで、その家訓は代々受け継がれることになります。

    中井源左衛門 光昌の格言

    中井源左衛門 光昌の格言を紹介します。

    その力に任せて、窮迫を哀れみ、救う志あらば、上は天の御心に叶い、下は諸人の気受けよく、商道の利運もその中に有るべし

    財力を持つ者が、貧窮者を哀れみ、救うという志は、商売の利益をもたらすと述べています。

    その志は、天の御心にも叶うことであり、人々からも受け入れられます。
    それは、商売をする中でも利運ともなるということです。

    出典:中氏制要

    相場、買置の術は貪買の所為、人の不自由を締めくくり、他の難儀を喜ぶものなれば、利を得ての真の利に非ず。

    商品を買い溜めすることで、商品を独占し、高値で売りつける商法があります。

    しかし、そのような商法は、人が困ることを喜ぶようなことです。
    それは本当の利益ではないと戒めています。

    出典:中氏制要

    商家は財を通じ、有無を達するの職分、その余沢を得て相続を立てること

    商人の職分とは、財の足りるところと、不足するところを繋ぐことだと述べています。
    商人の利益は、その繋いだところの余沢であると述べています。

    出典:中氏制要

    [PR]


    横浜商人 – 中居屋重兵衛

    中居屋重兵衛は、江戸時代末期の横浜貿易商人です。
    彼は、生糸で巨万の富を成した上州商人ですが、短期間で消息を絶った人物でもあります。

    火薬の製造・販売を行い、横浜開港時には、生糸輸出を営み、豪壮な店は「銅御殿」と呼ばれるまでに拡大しました。
    井伊直弼とは敵対関係にあり、井伊直弼が殺害された桜田門外の変にも関与したといわれています。

    中居屋重兵衛の略歴

    火薬の研究・製造

    中居屋重兵衛は、1820年、上野国吾妻郡中居村(群馬県内)において、名主である黒岩幸右衛門の子として生まれます。

    1839年に、十代後半に江戸に出ます。
    そして、火薬の研究・製造を行いました。

    大繁栄したが

    1849年頃には、米や砂糖、火薬などの物産店を始めます。
    1859年の横浜開港に伴い、横浜で生糸を中心とする輸出貿易を行います。

    店は「銅御殿」と呼ばれるほど繁栄しました。

    一方で、尊王派の志士に対して資金や武器の援助を行いました。

    1860年には、江戸幕府から営業停止命令を受けます。
    そして、生糸輸出制限令違反で捕縛されて獄死することになります。

    中居屋重兵衛の格言

    中居屋重兵衛の格言を紹介します。

    我召し仕えるものならびに民百姓の賞罰を正しくいたし、疎きをも恵み近きをも罰す、これ仁の堪忍なり。君に仕えて身命を顧ず一度も約をたがえず、これ義の堪忍なり。

    自分の偏見や感情を捨て、冷静に部下や人々の賞罰を判断すべきだと述べています。
    これが上に立つものの仁政です。

    そして、臣下の立場としては、君主に忠誠を尽くし、たとえ命を懸けても約束を守ることが重要であると説いています。

    出典:子供教草

    利を以て利と為さず、義を以て利と為す

    利益だけを目的として行動することは、短期的には利益が得られるかもしれませんが、長期的には利益につながらないかもしれません。
    「正しいこと」や「道理にかなったこと」に沿って行動することで、やがては利益が得られるものと説いています。

    出典:子供教草

    目次