上杉謙信 冷徹な現実主義のリーダシップ – 戦略・状況判断力

    戦国大名の上杉謙信といえば、戦に強い武将として知られています。
    「軍神」や「越後の龍」とも呼ばれています。

    新潟県のパンフレットには、生涯の合戦の戦績として、43勝2敗25引き分けとしています。
    これ程多くの戦いを経験し、戦国最強と呼ばれた武田軍も相手にしているにも関わらず、生涯で2回しか負けていないことになります。

    実際、謙信は、北信濃や関東、越中、能登、加賀まで、広く勢力を伸ばしました。
    武田信玄との川中島での激闘も有名です。

    さらに、私利私欲の戦いはしなかったという「義の武将」として人気があります。
    本記事では、「本当に義の武将だったのか」、「戦いに勝つために、どのようなことをしたのか」を見ていきます。

    目次

    上杉謙信とは – その略歴

    上杉家の家臣として生まれる

    上杉謙信は、上杉家の子では有りません。
    1530年に、越後(新潟県)守護である上杉家の家臣である長尾為景の息子として生まれました。

    長尾為景は、当主の上杉房能を自害に追い込み、関東管領である上杉顕定を討ち取りました。
    そして、守護の上杉定実を傀儡化して、勢威を振るった人物です。

    しかし、長尾為景と対立する勢力は多く、国内の内紛が続きました。

    1536年、長尾為景は隠居し、長男の長尾晴景が家督を継ぎますが、内紛は続きます。

    越後を統一する

    1540年代後半には、謙信(景虎)は10代後半になり、豪族の謀反を収めるなどの活躍をします。
    その中で、次第に、兄の長尾晴景とも対立していきます。

    1548年、守護の上杉定実の調停のもと、長尾晴景は謙信(景虎)へ家督を譲って隠退することになります。
    そして、現在の新潟県上越市の春日山城の城主となります。

    1550年には、上杉定実が死去し、謙信(景虎)が守護となります。
    一年後の1551年には、越後の統一を成し遂げます。

    関東管領になる

    当時、関東の戦国大名である北条氏康が、関東管領である上杉憲政を追い出しました。
    謙信は上杉憲政を支援していました。

    そのような情勢の中、武田家や北条氏とも争いが続けられます。

    1561年、謙信は上杉家の家督と関東管領職を譲られました。
    以降、毎年のように関東に出陣するようになります。

    越中(富山県)方面にも侵攻を繰り返します。
    加賀(石川県)では、織田信長の軍を破りました。

    1577年、遠征を予定していましたが、春日山城で倒れます。
    そして、この世を去ります。
    脳溢血だったと考えられています。

    その後、上杉家では内紛が生じ、その間に織田信長が勢力を伸ばしていくことになります。

    なお、「謙信」という名前は、禅宗になることを誓った仏教での名前になります。

    上杉謙信の冷徹なリアリズム

    引用:Wikimedia, 名高百勇傳, 歌川国芳

    建前を掲げることで正当化

    「義の武将」といわれる謙信ですが、近年、それに疑問符を投げかける研究も出てきています。
    著名な中世史家の藤木久志氏は、謙信の十数回に及ぶ関東出兵について、こう考察しています。

    関東出兵は、多くは晩秋に出かけて戦場で年を越し、春に帰る「長期越冬型」の戦争でした。

    二毛作のできない越後では、春から畑の作物が獲れる夏までの時期を超すと、ひどい食糧不足となったそうです。
    冬場の口減らしが切実な問題でした。

    そのため、謙信は人々を率いて関東に乱入し、食料などを略奪していたというのです。
    敵にとっては越後に攻めようとしても、豪雪が天然のバリケードになりました。
    「関東管領」という建前で戦争を正当化したと捉えられます。

    藤木氏によると、越後人にとっての謙信は「雪国の冬を生き抜こうと、他国に戦争という、大ベンチャー・ビジネスを企画・実行した救い主」と述べています。
    そして、「しかし襲われた戦場の村々はいつも地獄を見た」と付け加えています。

    冷静な状況判断

    飢饉や疫病が相次いだこの時代、戦場での略奪や生け捕った男女の売買は当たり前に行われていました。
    上杉軍が関東で人身売買をした記録もあります。

    謙信にとって「義」はあくまで建前で、本当は冷徹なリアリストだったのではないでしょうか。

    領土欲はなかったと言われますが、越中出馬を前に「越中を思い通り手に入れることができたら、毎日経を読みます」という、神仏への願文も残っています。

    昨年出版された『人物叢書 上杉謙信』において、山田邦明・愛知大教授は謙信のことを「決して無理をせず、状況を見据えながら、自身や家臣が損をしないように冷静に判断して行動する」と評しています。
    義の武将のイメージは江戸時代以降に形作られたそうです。

    ここから学び取れるのは、建前は建前とし、それに囚われない冷静な状況判断が大切だということでしょうか。

    もっとも、帰国するたびに、関東の国衆が離反するという繰り返しがありました。
    関東経営が上手く成功しなかったのは、「地獄を見た」戦争が恨みを買った影響も一つの理由かもしれません。

    国を富ませることが大切

    軍神ぶりが強調される謙信ですが、領国経営にも手腕を発揮しました。
    山田氏によると、1560年に春日山城下の府内を直轄地としています。

    その際、町民が負担する地子(固定資産税のようなもの)を5年間免除しました。

    直江津(新潟県西部)は日本海交易の拠点の一つでもありました。
    越後や他国から来た船に対する課役の免除もしています。

    他にも様々な課役を免除し、その後も府内の「火の用心」などに細かい指示を出しています。
    謙信が町や経済の振興に心を砕いていたことがうかがえます。

    独占が蓄財に繋がる

    ただし、直江津に船で運ばれてくる物品で課役免除にならなかったものがあります。

    それは、青苧(あおそ)です。

    青苧は、当時の衣料の繊維素材で越後の特産品でした。
    課役免除にしなかったのは、青苧が重要な財源であったことを示します。

    越後のほか、京都、近江・坂本などに、特権商人による青苧座がありましたが、謙信は越後から畿内(関西)間の青苧流通の支配権を掌握し、富を築いたと広く考えられています。

    挑戦には、準備が大切

    当然ですが、戦争をするにはお金がかかります。
    鉄砲や兵糧が不可欠です。

    大名は、直属部隊以外の武器や兵員を家臣には軍役を割り当て、数日の兵糧も自弁でした。
    長期戦になると、略奪のほか、兵糧支給の手当ても必要になってきます。

    戦いで勝つには、大名も家臣も、普段からの準備が大切です。
    戦争をするには、まず領国全体を豊かにすることが大事ということになります。

    現代に当てはめると、大きな挑戦の前には、まずしっかり事前の準備をすることです。

    謙信は領国経営に力を注ぎました。
    しかし、それでも口減らしのための戦争に出かけていきました。

    時代の制約と雪国のハンディもあり、何事も一筋縄でいかない難しさが浮かびます。

    Wikimedia, 上杉神社所蔵

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    上杉謙信の格言

    上杉謙信の行動や、生き様を示す格言を紹介します。

    人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ

    リーダーとなるべき人物の言動は、部下や領民の考えや行動に大きな影響を与えます。
    リーダーが不用意なことを言うと、リーダーは信頼を失いかねません。

    人々はリーダーのことを常に監視しているということも、忘れてはいけないことです。

    大事なのは義理の二字である

    道徳は、全ての組織にとって非常に重要です。
    精神が組織を繁栄させます。

    戦国時代は、いつ部下が寝返っても不思議ではない状況です。
    そんな時代にも関わらず、道徳を重んじることで、秩序を維持したのかもしれません。

    たとえ、道徳が建前であったとしても、それを掲げることが重要であると考えられます。

    実際、上杉軍の軍隊は非常に強力になりました。

    Wikimedia, 第四次川中島の戦い

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    上杉謙信を更に知る方法

    上杉謙信を更に知るための書籍や、xxxxを紹介します。

    上杉謙信 人物叢書

    上杉謙信に関するノンフィクション本です。
    本当の領国統治や、信仰、人柄に迫ります。

    雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り

    今では、戦国時代の英雄と知られる人物たちの戦場は、略奪で満ちていたとされます。
    実際の社会の現状を踏まえ、真実の戦国社会像が考察されています。

    まとめ

    謙信は決して「義の武将」ではなかったのかもしれません。
    しかしながら、越後の人々が飢えないために、心を配ったと捉えられます。

    また、建前であったとしても、大看板を掲げて、正義を掲げることは、組織をまとめる上で重要な要素であることがわかります。

    物事を一面だけで見ず、両面から見ることで、様々な教訓を得ることができます。

    参考資料

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