江藤新平は、幕末から明治期にかけて活躍しましたが、反乱を起こして、明治政府に処刑された人物でもあります。
彼は、四民平等を説き、教育や司法、警察などあらゆる分野に功績を残しました。
「維新の十傑」や「佐賀の七賢人」の一人として称されるほど優秀な人物です。
40歳の若さで処刑されることになりますが、彼をよく知る大隈重信は『之(江藤新平)を失つたる国家は更に甚大なる損害であり、不幸であつた』と無念をあらわにしていました。
その一方で、彼の性格についての評価は厳しく、渋沢栄一は『礼をわきまえなかったばかりに身を滅ぼした最も顕著な例』としています。
・「人民の権利」を第一に考える性格だった
・理想主義者で正義感が人一倍強かった
・妥協を許さず、頑固であった
そんな彼の性格と生涯を紹介していきます。
江藤新平とは – その略歴
貧しい武士の子
江藤新平は、1834年に九州の佐賀藩の貧しい下級藩士の江藤胤光の長男として生まれました。
1848年、10代半ばのとき、藩校の弘道館へ入学し、優秀な成績を修めます。
また、枝吉神陽という儒学者の下で尊王思想を学びました。
ただ、父の江藤胤光が職務怠慢により郡目付役を解職となり、生活は困窮しました。
江戸時代の終わり
1853年、アメリカのペリー艦隊が来航します。
激動の時代へと移り変わっていきます。
23歳のとき、開国の必要性を説く「図海策」を執筆したことで、その才能が世の中に認められていきます。
1862年には、脱藩し、長州藩士の桂小五郎などと接触します。
その時は、帰郷して佐賀藩から無期謹慎を命じられます。
1867年、徳川慶喜が大政奉還を行い、江藤新平は蟄居を解除されました。
戊辰戦争では、東征大総督府の軍監に任命されます。
明治政府での活躍
明治政府が誕生してからは、数々の役職に就任し、近代的で四民平等な国家づくりに専念します。
30代のとき、文部省の文部大輔に就任し、「学制」の基礎を固めました。
その後は、初代司法卿に就任し、警察制度・司法制度の整備を進めました。
悲惨な最期
1873年、征韓論を唱える西郷隆盛に同調しますが、征韓論争に敗れます。
下野し、板垣退助とともに自由民権運動を始めます。
1874年に佐賀へ帰郷後には、佐賀の征韓党の首領となります。
そして、明治政府の政策に不満をもつ士族を集めて「佐賀の乱」を起こしますが敗北しました。
明治政府によって処刑され、40歳でこの世を去りました。
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江藤新平の信念と正義感
「人民の権利」を守るという信念
江藤新平は「法律の下で全ての人が平等に暮らせる世の中」を目指していました。
そんな彼の功績は、教育・司法・警察制度など、あらゆる分野で現代に引き継がれています。
彼が特に尽力したのが、「人民の権利」を守ることでした。
江藤は司法省を設立し、日本で最初に近代的な裁判制度を確立させました。
従来の「役人が民を裁く」在り方から、「民の権利を守るための裁判」の形に変えたのです。
その一環として、「民衆が役人を訴えること」を可能にする通達を、半ば強引に発布したことは、当時としては衝撃的な政策だったようです。
自分が信じることへ突き進む性格
その後も江藤は、文部省を設置し学校を全国的なものにしたり、指名手配制度を設けて警察制度の基盤を作りました。
これらは近代的な国家を形作っていきました。
今では「司法」「立法」「行政」が干渉されない「三権分立」が当たり前ですが、当時は当たり前ではありませんでした。
「三権分立」は、江藤が日本に導入させようと画策していたものでした。
しかし、大久保利通率いる当時の政府は「司法」と「行政」を同一にしようとしていました。
ここで、意見の食い違いが起こりました。
江藤は人の言うことに耳を傾けず、自分が信じることへ突き進む性格でした。
そして、次第に政府との間に軋轢が生じていきました。
不正は許さないという正義感
江藤は正義感が人一倍強く、不正は許さない性格でした。
例えば、政治家の山形有朋や井上薫の汚職を追及し、弾劾していきます。
そのうち、政府から煙たがられる存在になってしまいます。
そんな時に、政府内では、「韓国を武力で征服すべきか否か」という「征韓論」で意見が真二つに分かれます。
江藤は「征韓」を主張していましたが、論争に敗れて憤慨した江藤は辞職する決心をしました。
頑固な信念は、時には破滅を招く
江藤が政府を辞職した頃、地元の佐賀では、明治政府に不満をもつ武士が荒れていました。
江藤は、彼らを鎮めるべく佐賀に向かおうとします。
しかし、江藤のこの行動は政府に残った大久保らにとっては好都合でした。
ここで、政府が佐賀に軍隊を送り込めば、江藤と武士という不安因子を両方とも抹消できると考えたのでしょう。
実際に、江藤と親しかった大隈重信は「飛んで火に入る夏の蟲」と言って、何度も江藤を引き留めたそうです。
しかし、江藤の頑固さは、自分の信念を曲げることを許しませんでした。
「自分がこの場を治めてみせる」と言っていた江藤ですが、佐賀の武士たちに乗せられる形で「佐賀の乱」を起こすのです。
結果は政府の圧勝。
政府側は、全てを見据えていたのかもしれません。
江藤の頑固で信念に突き進む人柄が、自らの破滅を招いてしまったのでしょう。
結果的に、江藤の主張は裁判で無視され、3日間の晒し首の刑という無念な形で死を迎えるのでした。
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江藤新平の格言
信念を貫き、現在の日本の礎を築いた江藤新平。
その江藤新平の生き様を示す格言を紹介します。
人智は空腹よりいずる
江藤新平は下級藩士の家に生まれ、貧しい生活を送っていました
それでも、めげず、日々勉学に励んでいました。
この言葉は、この窮乏生活を強がって、口癖にしていたものだと言われています。
実際、江藤新平は優秀な成績を収めました。
自分ではどうしようもない不利な環境でも、口癖にすることで、真実になったのかもしれません。
ますらおの 涙に袖をしぼりつつ 迷う心はただ君がため
この言葉は、江藤の辞世の句です。
彼は「佐賀の乱」の刑罰として、公開処刑され、晒し首になってしまいます。
彼は生前、司法制度の整備に尽力していましたが、この判決は正式な裁判に基づいたものではありませんでした。
「司法制度を無視して死刑が強行されてしまったこと」に対する無念や絶望を、この言葉で表現しているのかもしれません。
明確な意訳は不明瞭ですが、「勇ましい男が涙を流しております。迷う気持ちはありますが、天皇様のために今まで尽くしてきたのです。」といったところでしょうか。
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江藤新平が好んだもの
江藤新平が愛読にしたものや、好んだものはどういうものだったのでしょうか。
愛着を持って使用したものからは、彼の性格や生き様を感じられます。
愛読書:孟子
孟子とは「性善説」を説いた中国の儒学者であり、その教えが書かれた書物を愛読しました。
江藤が「孟子」を読んでいたというエピソードが一つ伝わっています。
当時、数人の女性が、通りを歩く藩士に声をかけて鬱憤を晴らす慣習があったようです。
しかし、江藤が通りを歩いても、女性たちは江藤のみすぼらしい姿を見ると、近づいてきませんでした。
それに怒った江藤はその場で「孟子」を大声で読み上げて、あてつけがましく立ち去ったのだと言います。
愛刀:肥前刀
この刀には「遠くは神武の遺蹤(いしょう)を履(ふ)み、近くは天智の基業を襲う」という文字が彫られています。
「古来の天皇の偉業を手本にして、明治天皇とともに新しい時代を作り出す」という、江藤の意気込みが込められているようです。
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江藤新平を更に知る方法
江藤新平を更に知るための書籍を紹介します。
江藤新平―急進的改革者の悲劇
時代を先取りする感覚と信念、実行力をもつ江藤新平。
優れた人権意識や、法治思想に照明を当てて、人物像を明らかにしています。
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孟子
江藤新平が若い頃、愛読したとされる「孟子」です。
儒教の「四書」とされ、仁・義・礼・智の徳に基づく王道政治を唱え、「性善説」に基づいた道徳論を説いています。
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まとめ
30歳の頃から政治の才能を発揮し、人民の権利を守るために尽力してきた江藤新平。
彼が「佐賀の乱」で亡くなっていなければ、日本に更なる革新をもたらしてくれていたことでしょう。
正義感の強さや不正を許さない清廉潔白さが、かえって自分を追い詰めてしまうこともあります。
人間関係を良好に保ち、どんな人の意見でも尊重できていたら、このような悲劇は生まなかったのかもしれません。
参考資料
- sagabai.com『江藤新平 ~「民権」を訴えた初代司法卿~』 佐賀市観光協会
https://www.sagabai.com/main.php/3773.html - 星原大輔『大隈重信と江藤新平・江藤新作』 早稲田大学
https://www.waseda.jp/culture/archives/assets/uploads/2018/01/WasedaDaigakushiKiyo_46_Hoshihara.pdf - PR TIMES『佐賀県立博物館「最上大業物 忠吉と肥前刀」展にて日本刀を体感できるイベント開催』 佐賀県
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000145.000018574.html - 歴史秘話ヒストリア『裁判はじめて物語~明治の人々はどうしたの?』 NHK
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/7.html - 佐賀地方検察庁『初代司法卿 江藤新平』
http://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/saga/page1000232.html