今村均 「真の武士道」とも言われた 奉仕型リーダシップ – 状況判断力

    今村均は大正から昭和時代の軍人であり、太平洋戦争で活躍しました。
    マッカーサーからは「真の武士道」と言わしめたと伝えられています。

    太平洋戦争では日本は様々な地域を占領しました。
    しかし、戦争後半になると、住民の反乱や無謀な計画による損耗が相次ぐようになります。

    今村均は、そのような中で、
    ・現地住民の要望を汲み取り、良好な協力体制を築き上げた
    ・前線に孤立した10万人の兵士の能力を引き出すことによって戦力を維持し続けた
    を成し遂げる、異色の将軍でした。

    今回はその人物であり、「聖将」と呼ばれた陸軍大将、今村均について紹介します。

    目次

    今村均とは – その略歴

    父の急死で、進学を断念する

    今村均は1886年、宮城県仙台市で生まれます。
    裁判官である父、虎尾の第7子でした。

    父の影響で全国を転勤し、旧制甲府中学校(後の新発田中学校)を優秀な成績で卒業します。
    旧制一高への進学を目指しますが、父の急死もあり、進学を断念します。
    そして、陸軍士官学校へと入校します。

    軍人よりは官僚や教育者に近いキャリア

    陸軍士官学校を優秀な成績で卒業します。
    陸軍大学では首席で卒業しました。
    陸軍大学の同期生には、後の総理大臣となる東條英機がいました。

    今村均は、一般中学校出身者としては、異例の参謀本部での勤務に従事います。
    満州事変では、関東軍への連絡やマスコミ対応等、調整任務に奔走します。

    その後は、関東軍の参謀本部や陸軍歩兵学校等で勤務します。
    1940年には、教育総監部本部長に就任して、戦陣訓の制定に関わりました。

    軍人よりは官僚や教育者に近いキャリアを歩みます。

    太平洋戦争の勃発、インドネシアで軍を指揮

    1941年に太平洋戦争が勃発し、ジャワ方面軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)の蘭印作戦を指揮することになります。

    1942年、スマトラ島の都市パレンバンを占領し、翌月にジャワ島上陸作戦を成功させます。
    現地の統治政策にも携わり、インドネシア独立運動家であるスカルノやハッタなどの政治犯を解放して援助しました。

    陸軍大将として終戦まで防戦

    1942年11月には、最前線であるニューブリテン島のラバウル方面軍司令官となります。

    1943年には、陸軍大将としてアメリカ軍に対する防衛作戦を指揮します。
    太平洋戦争で日本軍が不利になる中、ラバウルでは、持久戦のための体制作りに取り組みます。
    食料の自給自足体制を整えました。

    ラバウルを維持し、そのまま終戦を迎えます。

    戦犯者として一時死刑判決にも

    戦後の1946年、ラバウル戦犯者収容所に入所されます。
    1947年には、オーストラリア軍裁判で禁固10年刑となり、1948年には死刑を求刑されましたが、結果的に無罪となりました。

    軍事裁判で部下をかばうために、自身に不利となる証言を繰り返しました。
    1950年には、東京に送還されますが、かつての部下が収容されているマヌスでの島服役を強く希望して、移送されました。

    1954年、ようやく出所されます。
    かつての部下への支援と弔いの為、東京の世田谷区に3畳の小屋を建てます。

    世田谷の自宅に籠って質素な生活を送り、回顧録などの執筆を行いました。
    その印税は、戦死者や戦犯者、遺族のための援助を行いました。
    そして、1962年、82歳で静かに息を引き取ります。

    今村均の統治術と状況判断力

    出典:Wikimedia

    力で押さえつけず、人心を掌握

    占領下での対応

    日本軍は、占領下の領土に対しては、厳しい軍政による物資の供出や戦争協力が求めました。
    反発が起こると、力で押さえつけることが一般的でした。

    しかし、今村均は真逆の方針を取ります。
    現地の人々の協力を得ることを第一の目標としました。

    インドネシアでは、兵士による略奪等の不法行為を禁止しただけではなく、従来通りの生活を基本的に認めます。
    住民の生活を安定させるため、時には日本政府からの要望を断ってでも、石油や木綿などの生活物資の供給に努めました。

    住民との協力関係

    今村均は先住民であるインドネシア人の地位向上にも尽力します。
    初代大統領となるスカルノをはじめとする支配者層を解放しました。
    さらに、それまで十分な教育を受けてこなかった住民向けに様々な学校を開設し、広く学ぶことができる環境を整えました。

    それだけにとどまらず、インドネシア独立歌をレコードで配布する等、住民の意識高揚にも務めます。

    首脳部との方針の違いから、彼はインドネシアを去ることになります。
    しかし、彼によって整備された統治の仕組みが有効に機能し、インドネシアでは他の地域と比較して、終戦まで現地との協力的な関係が続くことになります。

    部下の力を引き出し、士気高揚

    物資補給の維持管理が難しい環境

    太平洋戦争の後半では、「餓島」として知られたガダルカナル島での戦いなど、日本軍は「戦わずして負ける」ことが多くなりました。

    今村均はインドネシアの占領の後、パプアニューギニアのラバウルに赴任します。
    ラバウルは、航空隊の基地として知られています。

    日本本土から遠く離れた地域のため、物資補給の維持管理が難しい状況でした。

    自給自足できる要塞を構築

    彼はラバウルの要塞化と並行し、将来的な補給の断絶を見越して自給自足体制の構築に取り組みます。
    自らも田畑を耕しつつ、食糧だけではなく、病院や兵器工場等、戦争に当面必要な全ての物資の自給自足を目指しました。

    ここでは、農業であれば農家出身者、薬品の製造であれば整備兵など、部下のぞれぞれの得意分野に沿った課題を与えて、取り組ませています。

    終戦直前の食糧自給率は85%にも達し、武器弾薬も膨大な備蓄が残されていたそうです。
    また、兵士が目的意識を失うこともなく、士気も旺盛であったそうです。

    アメリカ軍はラバウル攻略を目指しましたが、大規模な要塞が構築され、かつ物資も潤沢なラバウルの攻略を諦めます。
    今村均の10万人の将兵は、戦力と健康を保った上で終戦を迎えることができました。
    彼らは戦後の復興において活躍することになります。

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    今村均の格言

    難しい環境下でも、状況を捉えて、人々を大切にした取り組みをしてきた今村均。
    その、今村均の思想や生き様を示す格言を紹介します。

    日本の将兵の中に処罰すべき者がいるというのなら、私一人を裁けばいい。

    今村均は終戦後、69名の部下が戦犯として起訴されたと聞いた際に、こう述べました。
    自分一人を裁く理由として「部下はみな、私の命令を実行したにすぎないのだから」と付け加えています。

    実際の裁判でも積極的に部下を弁護し、処罰の軽減に努めたそうです。

    ラバウル将兵は今後も現地自活を続け、将来日本が賠償すべき金額を幾分なりとも軽減することをはかる

    終戦の知らせを聞き茫然自失とした麾下の将兵に対して、彼が下した命令です。
    「これは我々の外地における最後のご奉公である」と述べています。

    彼は戦争が終わっても国の在り方を考え続けました。
    また、常に部下に目的意識を持たせるように働きかけていました。

    出典:Wikimedia

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    今村均と関わり深いもの

    今村均と関わり深いものや、好んだものはどういうものだったのでしょうか。
    それらからは、彼の性格や生き様を感じられます。

    三畳小屋

    戦後、今村均は軍事裁判を受けて服役します。
    釈放後には、質素な三畳の小屋を建て、軍人恩給のみの質素な生活を送りました。

    自身が上官として戦場に部下を赴かせたことを罪と感じ、それを償うための行為といわれています。

    「インドネシア・ラヤ」のレコード

    インドネシア占領時、この曲「インドネシア・ラヤ」の流行を知りました。
    彼はレコードを発注し現地住民に配り、大変喜ばれます。

    「インドネシア・ラヤ」とは「独立運動を讃えた歌」で、今日の国歌となっています。

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    今村均を更に知る方法

    今村均を更に知るための書籍や、xxxxを紹介します。

    幽囚回顧録

    今村均が自ら記した回顧録であり、裁判と収容の記録です。
    「実際どのように考えていたのか」、「本当に立派な人のなのか」を知る手がかりになります。

    不敗の名将 今村均の生き方 -組織に負けない人生を学ぶ

    サラリーマン生活を送った著者が、現代の状況を踏まえて、今村均の生き方と教訓を紹介しています。
    組織の生き方やリーダーシップなどに活かせる内容です。

    まとめ

    最近、リーダーシップの新しい在り方として「奉仕型」が着目されています。
    従来は、上司が部下を管理し命令を行う「支配型」が中心でしたが、部下のニーズを汲み取って目的実現を後押しすることが「奉仕型」のリーダーです。
    支配型と比較して部下の才能をよく活かすことができ、様々なアイディアを生み出すことができます。

    旧日本軍のリーダーには、典型的な支配型の人物が多く、トップダウンで物事を決定し、占領下の人々や一般兵士は「手段」として使われることも少なくありませんでした。
    そのことで、太平洋戦争が後半になると、綻びが各所にみられるようになり、住民の反乱や無謀な計画による損耗が相次ぐようになりました。

    今村均はトップダウン型組織の極致であった軍隊の中で、部下に何が必要かを把握し、その実現に動いた異色の「奉仕型」リーダーでした。
    インドネシアとラバウルでの彼の成功はその手法の正しさを証明しています。
    彼の手法は結果として多くの人命を救い、また、多くの人にとっての希望となりました。

    ラバウルを舞台にした歌には「ラバウル小唄」があります。
    船乗りや復員兵士によって好んで歌われた曲ですが、ラバウルが郷愁を感じさせる、第二の故郷のような場所として表現されています。
    最前線の基地を「また来たい」と思わせる場所にした、彼のリーダーシップは今後も長く語り継がれるべきものでしょう。

    参考資料

    • 田中宏巳『太平洋戦争のラバウルでの自給自足』 豪日研究プロジェクト
      http://ajrp.awm.gov.au/ajrp/ajrp2.nsf/Japanese/B03E11DFCB02825ACA256DCF00144F4A
    • 保阪正康『今村均とジャワ軍政~陸軍内部の批判に応じなかった「真の軍人」』 WEB歴史街道
      https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7832?
    • 歴史街道編集部『今村均~10万将兵を救った「徳」の人』 WEB歴史街道
      https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2386
    • 山崎 英祐『ラバウル:地下壕の編集局 陣中新聞を発行 1995年8月』 日本記者クラブ
      https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/34767
    • 『ラバウル将軍・今井均の太平洋戦争』 太平洋戦争等の記録
      http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/imai/imai.htm
    • 『ラバウル小唄』 細道のMIDI倶楽部
      http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-Rabaul-kouta.html
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