明治時代から大正時代の名将として名高い、3人の軍人の言葉を紹介します。
彼らは、江戸時代末期に生まれ、明治維新の中で、日本軍の強化に関わりました。
日清戦争や日露戦争においても、日本軍の勝利に大きく関わりました。
聖将とも愚将とも – 乃木希典
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乃木希典は、民衆から英雄視され、「聖将」と呼ばれた軍人です。
一方で、司馬遼太郎などは「愚将」と評価しており、評価に賛否両論がある人物です。
明治天皇からも厚い信頼を置かれていました。
彼の死後、各地に「乃木神社」が建立されたほか、東京の乃木坂の由来にもなりました。
乃木希典の略歴
十代で幕府と戦う
乃木希典は、江戸時代末期の1849年、長府藩(長州藩の支藩)の藩士である乃木希次の3男として生まれます。
1865年、10代後半のとき、江戸幕府との戦い「長州征伐」が勃発します。
乃木希典は長府藩の報国隊に加わって、山縣有朋の指揮下で戦いました。
明治政府の樹立後、1872年には、陸軍少佐となります。
明治政府の反乱を鎮圧
1875年には北九州の小倉の歩兵連隊長心得となります。
1876年に明治政府に対する士族反乱「萩の乱」が起こりますが、その鎮圧に加わります。
1877年、西郷隆盛らによる反乱「西南戦争」では、反乱軍と闘います。
そこでは、連隊旗を奪われるという失態が有名です。
日清戦争と台湾総督
1879年には、大佐へ昇進します。
また、1887年から2年間、ドイツに留学しました。
1894年、日清戦争が勃発します。
乃木希典は第1旅団長として出征し、旅順を占領します。
1896年には、台湾総督に就任するが、翌年の1897年に辞職します。
日露戦争での戦い
1904年には、陸軍大将に就任します。
日露戦争では、第3軍司令官として出征し、多くの犠牲のもと、旅順要塞を攻略します。
最後の大規模な会戦である、奉天会戦にも参加しました。
乃木希典の長男・次男ともに日露戦争で命を落としました。
昭和天皇の教育に携わる
乃木希典は、明治天皇から厚い信頼を受けていました。
1907年には、学習院の院長に任じられます。
1908年に迪宮裕仁親王(昭和天皇)が学習院に入学し、その教育にも携わりました。
1912年、明治天皇が亡くなります。
明治天皇大葬の日、夫人ともに殉死して、この世を去ります。
乃木希典の格言
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乃木希典の格言を紹介していきます。
贅沢ほど人を馬鹿にするものはない。寒い時は暑いと思い、暑いときは寒いと思え。
学習院大学は、華族のための教育機関とし創立された学校です。
日露戦争後、乃木希典は学習院大学の院長として就任します。
この言葉は、就任した際の訓示の一部です。
出典:防衛省、産経新聞
一時に怯懦の心を発作して、終身の恥辱を帯ぶるなかれ。
人は、誰しも、ふと、卑怯な心情が生じることがあります。
ただし、その行動を取ってしまうことは、一生の恥になり得ることです。
卑怯な心情に従って、その行動を負ってはいけないと戒めています。
出典:訓示 – 桑田忠親『日本名言辞典』
王師百万 強虜を征す 野戦攻城 屍山を作す 愧づ我何の顔あって父老に看えん 凱歌今日幾人か還る
乃木希典は、日露戦争において、旅順を攻略して、日露戦争の勝利に繋げました。
一方で、多大な犠牲を払いました。
この言葉は、乃木希典は、「多大な犠牲を払ったことに対して兵士の親に対してどのような顔を下げればよいか」と、心境を綴った言葉です。
「凱旋」 - 照沼好文『乃木大将の直節』
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ぼんやりしているから司令官に選ばれた? 大山巌
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大山巌は、日清戦争と日露戦争の双方で、司令官として、日本の勝利に大きく貢献した陸軍軍人です。
東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」とも評されます。
大山巌の人柄は、度量が広く、人身掌握の術に長けたとされています。
西郷隆盛・従道の兄弟は、従兄弟にあたります。
そのこともあり、西郷隆盛や山県有朋に目を掛けられた人物です。
大山巌の略歴
砲隊長として活躍
江戸時代末期の鹿児島城下の加治屋町において、薩摩藩士である大山綱昌の次男として生まれます。
1862年には、大坂に出て倒幕運動に参加しますが、帰国後に謹慎処分となりました。
イギリスとの戦いである、薩英戦争では、謹慎を解かれます。
砲台に配属されて、初めて戦闘に参加します。
1864年には、江戸に行き、江川英龍の塾で学び、砲術の免許皆伝を得ます。
戊辰戦争では西郷隆盛の幕下において、砲隊長として活躍しました。
陸軍のキャリアを進む
明治時代になり、1869年には渡欧します。
ドイツのプロイセンとフランスとの戦争「普仏戦争」などを視察します。
また、パリやスイスでフランス語や砲術を学びました。
1874年、帰国し、33歳で陸軍少将となります。
1877年、西郷隆盛らの反乱「西南戦争」では、第5旅団司令官として戦いの鎮圧にあたります。
田原坂・城山攻防戦での勝利に貢献しました。
日清・日露戦争で司令官として活躍する
1880年には、陸軍卿となります。
参謀本部長、陸軍大将などを歴任します。
陸軍大学校の開校や東京湾砲台の建設を実現しました。
そして、陸軍大臣に就任し、兵制をフランス式からドイツ式に転換を図り、海岸防備体制はフランス式を採用しました。
1894年の日清戦争では、第2軍司令官として出征しました。
1904年の日露戦争では、参謀総長に対する総司令官を務めます。
その後、公爵の位を与えられます。
1914年からは内大臣を務めました。
大山巌の格言
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大山巌の格言を紹介します。
私はぼんやりしているから司令官に選ばれたわけですか。
大山巌が、明治天皇より日露戦争の満州軍司令官に選ばれます。
そのとき、「ぼんやりしているから司令官に選ばれたわけですか。」と尋ね、明治天皇は「そんなところだ」と答えたという逸話があります。
真実かどうかは賛否があるようですが、そのような人柄も評価されていたのでしょう。
出典:東洋証券「ひと息コラム 第47回:巌と捨松」
筒音が聞こえぬようじゃっどん、今日は戦っさはありもはんか。
日露戦争の沙河会戦での逸話です。
敵軍であるロシア軍の動向を把握する必要がありますが、簡単には把握できません。
そんなとき、大山巌は、昼頃にのんびりと起き、ロシア軍の動きを察したといわれています。
大山巌は、大雑把にも見える言動が多く残されています。
しかし、実際には、些細なことにも注意する几帳面な気質を兼ね備えています。
様々な状況の変化に気を配っていたことがわかるエピソードです。
出典:秋月達郎「大山巌と児玉源太郎~相思相愛の上司と部下」 PHPオンライン衆知
俺はじっと待つのが仕事じゃわい。
日露戦争において参謀である児玉源太郎に掛けた言葉です。
児玉源太郎に対して大きな信頼を置いていたことがわかります。
そして、大局的な視点から、それぞれの役割分担を理解していたと考えられます。
知っちょっても知らぬふりすることよ。
戦争が終わり、息子が大山巌へ訪ねます。
「総司令官として一番苦しかったことは何か」と。
そして、大山巌はこのように答えたとされています。
出典:大山格「曾祖父は「君が代」を制定していない」 日本文化の入り口マガジン 和樂web
知将として知られる参謀 – 児玉源太郎
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児玉源太郎は、日清戦争・日露戦争では、参謀として日本の勝利に大きく貢献した陸軍軍人です。
さらに、陸軍兵制の近代化の推進や、日露戦争の早期終結にも関わりました。
それらの実績から、優れた知将として名声が高く、今でも多くの人々が尊敬していまうs。
台湾統治の際は、第4代台湾総督として軍部をまとめます。
そして、才能を見出した後藤新平に民政への転換を任せるなど、人を見抜く力も備えていたといえます。
児玉源太郎の略歴
児玉家は廃絶される
江戸時代末期、児玉源太郎は、徳山藩(山口県徳山市)の中級藩士である児玉半九郎の長男として生まれます。
しかし、5歳のときに父が病死します。
そして、長姉の夫でとなった児玉次郎彦が家督を相続します。
しかし、1864年、児玉次郎彦が対幕恭順派によって暗殺されます。
そして、児玉家は廃絶されてしまいます。
その後、藩内で倒幕派が優勢になります。
そのこともあり、児玉源太郎を家長として、児玉家は再興されることになります。
明治政府の軍政の実権を握る
1868年には、17歳で戊辰戦争に従軍します。
東北や函館で戦いました。
明治政府が樹立されます。
士族の反乱である、1874年の佐賀の乱や、1876年の神風連の乱において従軍して、反乱を鎮圧します。
1877年の西郷隆盛らの反乱「西南戦争」では、参謀長格で熊本籠城を指揮し、薩摩軍を撃退しました。
1887年には、陸軍大学校長としてメッケル少佐を顧問としたドイツの軍制・戦術の導入にも携わります。
1891年、ヨーロッパを視察し、翌年に帰国し、陸軍次官として軍政の実権を握ることになります。
日清戦争と日露戦争での参謀
1894年の日清戦争では、大本営陸軍参謀として活躍します。
戦功により男爵を授けられることになります。
1898年には、乃木希典の後任として、台湾総督を1906年まで務めます。
この間、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣を兼任しました。
ソ連との緊張が高まり、戦争が始まろうとしていました。
1903年、日露戦争を準備していた陸軍参謀本部次長が急死します。
児玉源太郎は、内務大臣を辞して参謀本部次長に就任しました。
1904年には、日露戦争が始まります。
そこでは、参謀として満州軍総司令官である大山巌を補佐しました。
戦いを進める一方、有利な条件で戦争終結できるよう、ロシアとの早期講和に尽力し、1905年に日露戦争が終結します。
日露戦争が終わり、1906年に参謀総長や満鉄設立委員長を務めますが、同年に病死しました。
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児玉源太郎の格言
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児玉源太郎の格言を紹介します。
今やこの非常の難局に際会して、ただ目指すものは危機克服の一点があるのみ。
日露戦争の直前、参謀本部次長であった田村怡与造が急死します。
その後任として、児玉源太郎が選ばれました。
児玉源太郎にとって、ポストとしては、実質的に二階級下の降格にはなります。
しかし、平然と人事を受け入れ、このように語ったといわれています。
陛下の赤子を無為無能の作戦によって いたずらに失ってきたのは誰だ。わしはこれ以上兵の命を無駄にしたくないから作戦の変更を命じているのだ。
日露戦争の旅順攻略では、日本軍が苦戦し、多くの死傷者を出しました。
日本軍の死傷者数は約7万人とされます。
日露戦争の全体の死傷者数は約8~9万人とされていますので、旅順攻略の犠牲者数がいかに多いかがわかります。
児玉源太郎は苦戦する戦地に赴き、戦略を変えるように指示しました。
砲兵少佐などが反発する中、涙を流しながら怒鳴った言葉が、この言葉といわれています。
児玉源太郎が旅順に到着した4日後には、203高地の攻略に成功します。
そして、旅順攻略の道が開かれました。
出典:歴史街道「児玉源太郎~百年に一人の戦略家の生涯」
人事を尽くして遺憾はないが、さらに日輪に向かって加護を乞うのだ。
日露戦争で、旅順攻略が終わり、日露戦争における最後の大規模会戦「奉天会戦」が始まります。
その奉天会戦の際に、総司令部にいた児玉源太郎は明け方に起きました。
そして、東の天を拝して祈ったといわれています。
出典:秋月達郎「大山巌と児玉源太郎~相思相愛の上司と部下」 PHPオンライン衆知