宮崎繁三郎 絶望な状況でも「不敗」の指揮官 – リーダーシップと状況把握力

    宮崎繁三郎は、大正から昭和時代の陸軍軍人です。
    ソ連軍との衝突や、太平洋戦争において軍を率いた人物です。

    日本軍は太平洋戦争の後半に各地で追い詰められます。
    宮崎繁三郎が従軍した、1944年以降のビルマ戦線では、補給を無視した無謀な作戦が続きました。
    指揮官が攻撃命令に反抗したり、司令部が逃亡したりと、軍隊として形をなさない状態となりました。

    そのような絶望的な状況の中で、部下の高い士気を保ち続け、攻勢の意志を失わず、「負けることがなかった人物」がいます。
    今回はその人物、宮崎繁三郎について紹介します。

    目次

    宮崎繁三郎とは – その略歴

    出典:Wikimedia

    注目される存在ではなかった

    宮崎繁三郎は1892年、岐阜県厚見郡に生を受けます。

    陸軍幹部を輩出している幼年学校ではなく、旧制岐阜中学校を卒業後します。
    そして、陸軍士官学校に進みます。
    士官学校や陸軍大学校での成績は中位にとどまり、特別注目される存在ではなかったようです。

    1914年、陸軍士官学校を卒業し、歩兵第16連隊に配属されます。

    苦境を打開する

    その後、宮崎繁三郎は中国や満州の諜報機関に従事します。

    台湾軍司令部参謀や、第21軍司令部参謀などを経て、1939年に歩兵隊長となります。
    宮崎繁三郎はすでに40代後半の年齢でした。

    そして、彼の真価は実戦で発揮されることになります。

    当時、日本軍はソビエト連邦との間で国境の紛争が起こっていました。
    その一つである、ノモンハン事件では、日本軍が苦境に陥りました。

    宮崎繁三郎は歩兵隊を率いて、夜襲を敢行し、敵地点を占領します。
    さらに、敵戦車部隊の反撃を撃退し、拠点の維持に成功します。

    絶体絶命の状況に陥る

    ノモンハン事件後は、諜報畑に戻ります。
    上海特務機関長や、師団歩兵旅団長などを経て、ビルマ(ミャンマー)に送られることになります。

    太平洋戦争の終盤、1944年に、第31師団長としてビルマ戦線に従事します。

    上層部は、イギリスが支配するインド北東部に対して、日本軍が進軍した作戦を決定します。
    インパール作戦と呼ばれ、無謀な作戦なので、味方が総崩れになりました。
    3万人以上の日本兵が死亡することになりました。

    宮崎繁三郎は、その中で奮戦しました。
    敵拠点の一時占領や撤退時の粘り強い抵抗により、味方を支えました。

    また、宮崎繁三郎の軍隊は、敗色濃くなった1945年においても戦意を失いませんでした。
    第54師団長としてイギリス師団の撃退・包囲下からの脱出など、大いに活躍します。

    そうして終戦を迎えました。

    商店街の店長として余生を過ごす

    終戦後は、宮崎繁三郎はビルマ収容所に収容され、2年程にわたって捕虜生活を過ごします。
    1947年に帰国でき、東京都世田谷の商店街に「陶器小売店岐阜屋」を営みました。

    自身の功績を誇らず、政治的な活動に身を投じることもありませんでした。
    下北沢の商店街で陶器店を営んで余生を過ごしたのでした。
    そして、1965年、73歳で逝去します。

    宮崎繁三郎の模範を示すリーダーシップ

    出典:Wikimedia, Imperial Japanese Army

    全体を理解して、小さな工夫で勝利を得る

    ノモンハン事件での活躍

    1939年、ソビエト連邦と、モンゴルと満州国の国境を巡って勃発した「ノモンハン事件」は、当初は互角でした。
    しかし、ソ連軍の指揮官ジューコフの指揮の下、日本軍は敗北を重ねて追い詰められます。

    宮崎繁三郎は、戦局が大詰めを迎えた9月に、反撃のために派遣された第2師団の中の第16連隊を率いました。

    宮崎繁三郎は、ソ連軍の陣地の夜襲を決行します。
    夜襲に成功し陣地を占領し、翌日には反撃を試みたソ連軍の戦車部隊にも側面攻撃を加えて撃退します。

    戦後を理解した行動

    この戦術的勝利だけでも価値は高く、評価されています。
    さらに、宮崎繁三郎は、「この紛争が国境問題であること」をよく理解していました。

    そこで、宮崎繁三郎は、それを踏まえて、戦後のことも考えた行動を取ります。

    占領の証拠を残すべく石工出身の兵士に命じ、部隊名と日付を記載した石板を埋め込みます。

    ノモンハン一帯は見渡す限り草原と砂丘が続き、領土の基準地点を決めることすら難しい環境でした。
    停戦後の国境策定会議では、領土の基準に難航しました。

    しかし、宮崎繁三郎が占領した地点は、石板によって証拠が残っていました。
    そこで、日本側の主張がそのまま認められる形となります。
    小さな機転により、満州国は500㎢もの土地を獲得することになります。

    先に立って模範を示すリーダーシップ

    インパール作戦では、敵中に取り残される

    1944年に実施されたインパール作戦は、攻勢防御の発想から計画されました。
    しかしながら、兵站が破綻した中で、あまりにも無謀な試みでした。

    宮崎繁三郎が率いた第31師団は、イギリス軍の想定をはるかに超えるペースで進軍して急襲を行います。
    そして、敵の補給拠点の占領に成功します。

    しかし、直ぐに補給が困難になりました。
    さらに、味方の独断による撤退や、雨期が始まったことで、彼の部隊は完全に敵中に取り残されます。

    絶望の中でも撤退に成功する

    宮崎繁三郎は、そのような中で彼は大きな犠牲を払いながらも、巧みな遅滞占術により軍を撤退させます。

    また、追い込まれた状況の中でも、決して部下を見捨てず、自ら負傷兵を担架でかついで食糧を分け与えました。
    また、他部隊の収容や遺体の埋葬にも務めたそうです。

    インパール作戦は、数多くの戦病死者や、餓死者が発生し、その遺体が残されたことから「白骨街道」とも呼ばれました。
    そのような中で、宮崎繁三郎の部隊は敗北することなく、統率を保ったまま撤退に成功します。

    後年のインタビューでは、帰還兵の誰もが、無謀な作戦の指揮者である「牟田口廉也」の名に怒りを覚えたそうです。
    しかし、「宮崎繁三郎」の名を聞くと、その率先垂範の姿を思い出し、彼を讃えたといいます。

    宮崎繁三郎の格言

    ここまでは、宮崎繁三郎のエピソードを紹介しました。
    ここからは、そんな彼の生き様や思想を示す格言を紹介します。

    全ては部下たちのおかげだ

    ノモンハン事件や、太平洋戦争での活躍を決して誇ることはなかったそうです。
    活躍について聞かれると宮崎繁三郎、こう答えたといいます。
    シンプルな言葉ですが、彼の性格を窺い知ることができます。

    敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したか?

    後年、宮崎繁三郎が危篤になりました。
    昔の部下は見舞いに駆け付けますが、彼は何度もこの言葉を繰り返したそうです。
    彼が死の直前まで、指揮官として部下を気遣っていたことが伺えます。

    出典:Wikimedia, Ryley R (Fg Off), No. 42 Squadron RAF

    宮崎繁三郎と関わり深いもの

    宮崎繁三郎と関わり深いものを紹介します。
    彼がどのような考えを持っていたか、彼の性格や生き様が感じられます。

    陶器小売店 岐阜屋

    宮崎繁三郎は晩年、東京都世田谷区の下北沢の商店街で、小さな陶器店を営みました。
    とても愛想が良かったそうです。
    彼は功績を自慢しなかったので、多くの人は、彼の経歴に気がつかなかったそうです。

    吾輩はチビ公である

    宮崎繁三郎の回想録のタイトルです。
    「チビ」とは、戦いの前線で、ペットとして飼っていたサルの名前でもあります。
    和やかなタイトルが人柄を感じさせます。

    (以下、PRを含みます)

    宮崎繁三郎を更に知る方法

    宮崎繁三郎を更に知るための書籍や、xxxxを紹介します。

    陶器小売店岐阜屋

    昭和時代の代表的な軍人22人について取り上げられている書籍です。

    宮崎繁三郎のほか、栗林忠道や石原莞爾、今村均、山本五十六などが取り上げられています。
    愚将としては、インパール作戦の牟田口廉也のほか、服部卓四郎、辻政信などが取り上げられています。

    名将と愚将という形で分けることや、著書の主張には賛否両論があるため、その点を考慮して読み進めるのが望ましいでしょう。

    まとめ

    宮崎繁三郎は、組織における中間管理職の立場でした。
    どれほど絶望的な状況であっても上司の意向を遵守し、一方で部下をよくまとめ上げ、その実現のために奮闘しました。

    畑違いの部署からの異動であっても、現場を把握し常に目標を設定し、決して部下を見捨てない姿。
    彼の姿は、組織で働く人々にとって、理想のリーダー像といえるでしょう。

    彼の「不敗」の姿は決して荒唐無稽な武勇伝ではなく、有意義な教訓に満ちています。

    参考資料

    • 『不敗の名将・宮崎繁三郎 ~ノモンハン事件からインパール作戦まで唯一敗けなかった男』 致知出版社
      https://www.chichi.co.jp/web/20190702_watanabe_miyazaki/
    • 歴史街道編集部『宮崎繁三郎~ノモンハン、インパールを戦い抜いた 部下思いの野戦指揮官』 WEB歴史街道
      https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4268
    • 佐藤和敏『歩兵第十六聯隊のノモンハン事件参戦』
      https://www.mod.go.jp/pco/niigata/HP/01-data/sirakabe/sirakabe16.pdf
    • officetakeo『最悪の作戦でも果敢に戦った将軍 宮崎繁三郎』 第二次世界大戦 知将・名将・英傑列伝
      http://takeo896.blog.fc2.com/blog-entry-16.html
    • 白髪磨人『名将十傑 其乃伍:宮崎繁三郎 陸軍中将』
      https://ameblo.jp/shiragamajin/entry-12025666581.html
    目次