田中正造 政府や財閥を相手に闘った政治家 – 大局的な視野と行動力

    田中正造は、明治時代の政治家であり、政府を相手に闘った社会運動家としても知られています。

    政府が目を背けようとしていた、日本の公害問題の原点といわれる「足尾鉱毒問題」や「治水計画による強制退去」なでは、政府や巨大財閥を相手にして、身を賭して闘いました。
    近代日本は、国益至上主義でしたが、その中で、農民の側に立ち、人民のための政治を求めました。

    彼は大局的な視野をもち、「今」でなく「将来」のことも考えて行動した、時代の先駆者ともいえます。

    結果的に世論を動かした、その田中正造の粘り強さと、大局的な視野について紹介します。

    目次

    田中正造とは – その略歴

    若くして投獄される

    田中正造は江戸時代後期の1841年、下野の小中村(栃木県の佐野市内)の名主、田中富蔵の長男として生を受けました。
    父の影響もあり、幼少時から勉学に励みました。
    並外れて強情で、周囲を困らせた子供でもあったようです。

    17歳の時、父の後を継いで名主となります。
    しかし、当時の領主である六角家に対する改革運動に関与し、投獄されます。

    二度目の投獄

    1870年には、上京して江刺県(岩手県)の属吏となり、花輪分局に勤務することになります。
    翌年には、上役殺害の嫌疑を受けて投獄され、1874年に無罪釈放となれます。

    二度の投獄は、いずれも住民の立場を過度に主張しすぎたことによるもの、と考えられています。
    計3年半を獄中で過ごしたことになります。

    2度目の獄中生活では、政治学を学びました。

    政治家になる

    田中正造は30代後半となり、1879年には「栃木新聞」を創刊して、民権思想や時事問題を論じます。
    1880年、栃木県会の議員となり、1886年に県会議長となりました。
    1882年、立憲改進党に入党します。

    1890年の国会開設と共に、衆議院議員に当選します。
    以後、11年間、当時問題となった足尾銅山鉱毒事件(栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺)の住民の救済を訴えます。

    世論を動かす

    1901年、議員を辞職した直後、天皇への直訴を行います。
    当時は死罪にもなり得ることを覚悟しての行動でした。

    彼の活動は国を動かし、渡良瀬川流域には鉱毒対策のための貯水池が建設されることになります。

    1904年には、谷中村の遊水地化計画による強制買収に対して反対運動を行います。
    晩年は治水事業に尽力しました。

    その後、1913年、遊説活動で挨拶回りを続けている中で病に倒れ、その生涯を終えます。

    政治活動で彼は全ての財産を使い果たし、遺したものは袋1つ分の荷物だけであったそうです。

    引用:Wikimedia, 栗原彦三郎編『田中正造自叙伝』中外新論社

    田中正造の大局的な視野と、世の中を動かした忍耐力

    大局的な視野による施策

    田中正造の実績は、並外れた粘り強さと、大局的に問題を見る能力によってもたらされました。

    足尾銅山の渡良瀬川流域の鉱毒による被害は、新しい鉱脈が発見された1880年頃から表面化していました。
    しかし、国策として「産業の強化」が最優先された時代です。
    問題として取り上げられる事もなく、被害との関係も証明されていませんでした。

    そこで、田中正造は国会で執拗に問題を取り上げる一方、流域の住民に対しても反対運動への参加を呼びかけます。
    さらに、大学教授に依頼し、科学的な根拠を確立させます。

    また、問題を取り上げる際は、単に流域住民への補償を約束を求めるのではなく、文明の在り方としての環境保護を訴え、問題を普遍化させるよう努めています。

    約束させた予防工事が不十分である事が分かると、彼の呼びかけによって、大規模に組織化された住民が数度に渡って国への陳情へと向かいます。
    4度目には、警官との衝突が起こりました。
    その際、田中正造は「亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問」と延べ、問題を広く日本全体のものとして提起して激しく追及します。

    世論を大きく動かす行動力と粘り強さ

    足尾銅山事件について、議会での活動での解決は困難と判断し、彼は議員を辞職します。
    草の根で活動する一方、1901年12月10日、日比谷で明治天皇への書簡による直訴を試みます。

    直訴は遮られ失敗しますが、当時の法律では「死罪」とされた、この勇気ある行為は世論を大きく動かします。
    政府は、鉱毒調査委員会を設立して現地を調査し、貯水池設置による鉱毒被害の軽減を図ることになります。

    田中正造が初めて問題に取り組んでから約10年が経ちました。
    後の貯水池建設への反対まで含めると、20年もの期間を、この問題解決の為に注ぎました。

    彼の行動は今日も尚、日本における環境問題解決のシンボルとなっています。

    田中正造の望んだ鉱山の操業停止は、1973年を待つことになりますが、彼の故郷に建設された貯水池は、鉱山からの有毒物質の流出防止に大いに役立ちました。
    彼の行動は、渡良瀬川流域の多くの住民を守ることになります。

    引用:Wikimedia, 幕末・明治・大正 回顧八十年史

    田中正造の格言

    田中正造は、どのような考えを持って行動したのでしょうか。
    彼の言葉からは、その行動の考えや視野が表れています。

    真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし

    田中正造は足尾鉱毒事件の解決を訴え続けました。

    それは、単に被害に遭った住民の為の陳情に留まらず、広く文明全体の在り方を考えていました。

    水は自由に高きより低きに行かんのみ。水は法律理屈の下に屈服せぬ

    田中正造の治水に対する考え方を述べた一言です。

    自然を相手にする為には「都合の良い解釈をするのではなく、根本的な解決が必要」であることを訴え続けていました。

    出典:Wikimedia, Modeha, 足尾銅山

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    田中正造が好んだもの

    田中正造が好んだものはどういうものだったのでしょうか。
    彼が愛着を持って使用したものからは、彼の性格や生き様を感じられます。

    新約聖書

    彼は聖書を愛読して自身の活動についての心の拠り所としました。

    また、しばしば教会では鉱毒被害について訴えていました。

    小石3個

    田中正造は、政治活動で財産を使い果たし、遺したものは袋1つ分の荷物といわれています。
    小石3個は、彼の僅かな遺品の1つです。

    彼は人生を川の水質改善のために捧げました。

    そして、川を自身の憩いの場所と感じていたのか、河原の石の採集を数少ない楽しみとしていました。

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    田中正造を更に知る方法

    田中正造を更に知るための書籍を紹介します。

    辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件

    銅山の資本家と政府に対する、田中正造の苦難に満ちた闘い。
    その壮絶な事件について伝記文学として記されています。

    まとめ

    もしも、田中正造が穏健で妥協的な考えの持ち主であれば、足尾銅山の鉱毒問題の解決方法については、あくまでも住民の雇用や所得の補償を求めるといった選択肢もありました。

    しかし、彼は大局的な立場から問題の根本的解決を求め続けました。
    それは、日本において「環境問題」や「持続可能な社会づくり」の考え方の礎を築き上げたといえます。
    そして、教科書にも名を残す偉人となりました。

    今日では、多くの人が彼の考え方に賛同し、日々、物質的な豊かさと環境のバランスを取るべく努力を続けています。
    田中正造の考えは私達だけではなく、遥か子孫の代まで引き継がれてゆくことでしょう。

    参考資料

    • 佐野市郷土博物館『田中正造』
      https://www.city.sano.lg.jp/material/files/group/83/img430.pdf
    • 佐野市郷土博物館『田中正造展示室』
      https://www.city.sano.lg.jp/sp/kyodohakubutsukan/tenji/2/1218.html
    • kirihito『田中正造の知っておくべき6つのエピソード!』 ホンシェルジュ
      https://honcierge.jp/articles/shelf_story/4013
    • EcologyOnline『百年を経て蘇る田中正造の伝言』
      https://www.eco-online.org/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88/shozo/
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