伊奈忠次 関東の発展の基礎を築いたリーダシップ – 洞察力

    伊奈忠次は、江戸時代の代官であり、関東の繁栄の礎を築いた人物です。

    川は多くの恵みをもたらす一方、水害の際は多くの命を奪います。
    川を上手く治めること、これが文明の歴史であり、「政治」という言葉の語源でもあります。

    南関東は水に恵まれ、今では3,000万人以上が暮らす地域です。
    しかし、戦国時代までは度々の水害に悩まされ、土地の恵みを十分に活かすことの出来ない場所でした。

    それが、江戸時代の「政治的」な大偉業によって今日の繁栄につながります。

    今回は江戸時代初期の関東の治水や、農業政策に多大な貢献をし、多くの地名にその名を残す偉人、伊奈忠次。
    それらを実現した洞察力や周囲の巻き込み力について紹介します。

    目次

    伊奈忠次とは – その略歴

    徳川家康の元を2回離れる

    1550年の戦国時代において、徳川家康に仕える伊奈忠家の長男として、今日の愛知県西尾市付近に生を受けます。
    しかし、伊奈忠家が三河一向一揆に加担し、徳川家(当時は松平家)を追われることになります。

    1575年には伊奈忠家が長篠の戦いで功を立て、伊奈忠家・忠次の父子は家康の嫡男である信康に仕えます。
    しかし、1579年、織田信長によって信康が自刃させられると(築山殿事件)、再び徳川家を離れ、浪人生活することになります。

    家康の元に戻り、縁の下の力持ちとして活躍

    1582年、本能寺の変のとき、伊奈忠次は家康の伊賀越えへ帯同します。
    その後、伊奈忠家の旧領である小島(愛知県西尾市小島町)を与えられ、再び家康に仕官します。

    家康の近習として五ヵ国総検地代官衆の筆頭となり、検地等を通して信頼を積み重ねてゆきます。
    豊臣秀吉の小田原征伐の際には、街道の整備や兵糧の輸送を担い、その後方支援の才能は秀吉に大名級との評価をされました。

    関東代官として、関東の発展の基礎を作る

    徳川家康は、秀吉によって関東の江戸へと移封させられます。
    伊奈忠家は関東代官頭として 埼玉県伊奈町付近に拠点を構え、検地や新田開発に携わります。

    武田信玄の治水工事にヒントを得た、河川改修や特産品の振興等、埼玉県を中心とした関東地方の開発に幅広く携わりました。
    中でも特筆すべきは、利根川の東遷事業です。
    その第一段階としての備前堤の建設によって綾瀬川を荒川から切り離し、流域の水害軽減と農業用水の確保を実現しました。

    伊奈忠家は利根川東遷事業の志半ばの1610年、61歳で病没します。
    利根川の東遷事業は、子の伊奈忠治に受け継がれ、その後50年余りを経て目的を実現します。

    伊奈忠次の洞察力と巻き込み力

    引用:Wikimedia, Jmho

    現場視点での政治

    伊奈忠次の実績は、技術者、政治家として常に現場を見て回り、現場の視点で考えることによって実現されました。

    現場の状況や心境を捉える

    小田原征伐の大雨の際には、豊臣秀吉へ休息を進言した時には、現場の将兵の状況や心境をよく理解した上で、行軍を急ぐ秀吉への配慮も忘れずに発言しました。
    それが受け入れられ、周囲に大いに感謝されたといいます。

    組織の目線と、現場の視点を持ち合わせる

    また、関東の検地の際には、従者に馬を引かせて徒歩で現場を回り、常に農民の目線で現場を見たといいます。
    検地は今日の税務調査のようなもので、しばしば反撥を招きます。

    しかしながら、特産品の奨励や開発等も絡めた「農民の所得向上」と「幕府の収入安定」の両方を実現させます。
    そのため、彼の手法は統治者、農民双方に高く評価されました。

    彼は年貢や夫役を村単位の連帯責任とする村請制の制定にも関わりました。
    これは村内の連帯感を高め、生産性を上げることにも貢献しています。

    後世にも残る地域の発展

    彼の最大の功績である治水工事については、甲州流にヒントを得た関東流の工法を確立しました。
    流域の被害軽減と農業用水の確保、肥沃な土の確保を実現させました。

    単に氾濫を防ぐだけではなく、農民の立場としても高い利便性がありました。
    だから、農民は、堤防の機能維持に欠かせない日々の補修にも喜んで協力したといいます。

    流域の開発が進むにつれて、被害が無視できなくなり、近代では被害を抑え込む方法が主流となりましたが、築かれた堤防は農業用水の確保目的で使われています。
    また、工法自体も今尚一部の地域で使われています。

    利根川全体の改修工事は彼一代で完成させるにはあまりにも大きなものでしたが、多くの人の関心を惹きました。
    その仕事は子孫やその遺志を継いだ人々にも引き継がれ、今日の関東地方の姿を作り上げることになります。

    伊奈忠次の評判

    関東の発展の礎を築いた伊奈忠次。
    彼の評価を表す言葉を紹介します。

    関八州は忠次によって富む

    伊奈忠次の関東地方開発についての数々の功績は、上の言葉で讃えられました。
    地域の住民からは絶大な支持を受け、まるで神のごとく讃えられたそうです。

    関八州を己の物のごとく大切に致すべし

    徳川家康が伊奈忠次に掛けた言葉です。
    家康は治水や農業開発の重要性を理解していました。
    そして、伊奈忠次に絶大な信頼を寄せているからこそ、この言葉を忠次へ伝えたと考えられます。

    [PR]


    伊奈忠次と関係深い地域やもの

    地域名や堤防名と通して、今日でも伊奈忠次が成し遂げた実績が伝わっています。

    埼玉県伊奈町

    この地域は、伊奈忠次を輩出した小室藩に因んで名付けられた地名です。
    地域の祭りや特産品の日本酒等でも、伊奈忠次を強く推しており、その偉大さを伺い知ることが出来ます。

    尚、茨城県の旧伊奈町(現つくばみらい市)は、伊奈忠次の子「伊奈忠治」所縁の地名です。

    備前堤

    伊奈忠次(備前守)が工事を行った堤防の通称です。

    洪水を抑え込むのではなく遊水地に誘導します。
    通常時は、水が流れ込み肥沃になった遊水地で農業を行います。

    農民の目線で考え、自発性を促した彼の考え方をよく表しています。

    (以下、PRを含みます)

    伊奈忠次を更に知る方法

    伊奈忠次を更に知るための書籍や、地域を紹介します。

    江戸幕府代官頭 伊奈備前守忠次

    大学教授によって、伊奈忠次の生涯を詳しく紹介された書籍です。

    伊奈町

    埼玉県にある伊奈町に訪れて見るというのはどうでしょうか。
    伊奈町観光協会:https://inakanko.com/?p=we-page-top-1
    秋の11月頃には、伊奈忠次にちなんだ「忠次公レキシまつり」が開催されています。

    また、伊奈町では、ふるさと納税もあり、果物の梨やマスカットが返礼品になります。

    まとめ

    伊奈忠次は優秀な実務家であり技術者でした。
    そして、誰よりも現場をよく把握し、自発性や継続性を促すような仕組みを作る「政治家」としても活躍しました。

    伊奈忠次が一代で成し遂げられなかった事業は、自身の子孫の代へ引き継ぐ形で、大偉業を達成しました。

    実現しようとすることが途方もなく大きいものには、周囲の関係者を巻き込み、モチベーションを高めました。
    それは、組織側の目線だけでなく、現場を見ることで、幅広い知見を得ていたからこそ、周囲の共感を得ることができたのでしょう。
    彼の手腕は、状況を正しく把握することや、先見性のある洞察をする際にも、大いに参考になることでしょう。

    参考資料

    • 伊奈忠次PR映像『伊奈忠次ー関東の水を治めて、泰平の世を築くー』 
      https://youtu.be/R6jRNDkUqec
    • NHK Eテレ『先人たちの底力 知恵泉(ちえいず) あなたと家族の命を守れ!~江戸を救った男 伊奈忠次の防災術~』
    • AGC新井宿駅と地域まちづくり協議会『関東郡代伊奈氏の200年展』http://araijuku2011.jp/wp-content/uploads/2016/10/伊奈氏展冊子版B.pdf
    • 伊奈町『伊奈氏と伊奈氏屋敷跡』
      https://www.town.saitama-ina.lg.jp/0000004028.html
    • 荒川上流河川事務所『伊奈一族の治水』 国土交通省 関東地方整備
      https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000670308.pdf
    • 江戸ガイド『伊奈忠次』
      https://edo-g.com/men/view/215
    目次