高島嘉右衛門 横浜の未来を読み当てた男とは? – 先読み 予見力

    約370万の人口を有する神奈川県横浜市ですが、江戸時代末期の開国当初は小さな漁村に過ぎませんでした。

    しかし、卓越した先読みの能力を持つある人物「高島嘉右衛門」の活躍により、今日の発展の礎が築かれます。

    高島嘉右衛門は、江戸時代末期から明治にかけて横浜の近代化に尽力し、

    ・横浜への鉄道敷設を提案し、今日の「みなとみらい地区」の土台を築いた
    ・日本で初めてのガス会社を設立し、ガスの供給を行った
    ・外国語の重要性に気が付き、学校の建設を行った

    といった数々の偉業を達成しました。

    その先読みの鋭さと研究成果から「易聖」と呼ばれます。
    日本における占いの代名詞ともなった人物、高島嘉右衛門について取り上げます。

    目次

    高島嘉右衛門とは – その略歴

    若くして家督を継ぐ

    材木店「遠州屋」の手代である遠州屋嘉兵衛の第6子として、1832年に今日の銀座付近に生を受けます。
    幼少期はやや体が弱かった反面、学問で優れた才能を見せたそうです。
    14歳頃には、父と共に家業の材木商や盛岡藩の鉱山経営等に携わりました。
    しかし、若くして父を亡くし、19歳のときに家業を継ぎます。

    資産家になるが、一転、牢獄へ

    1859年、伊万里焼や白蝋を販売する肥前屋を横浜に開店します。
    江戸の大火後の木材特需で財を成しますが、その後の嵐で失敗してしまいます。
    金策のため、違法な金貨取引や外国人への小判密売に手を出します。
    結果として逮捕され、5年間の牢獄生活を送りました。

    釈放後は、横浜の資産家に

    釈放された後、横浜の地で材木商を再開します。
    1867年には、横浜の尾上町に旅館「高島屋」を設立しました。
    新政府の中心人物との交友を広める中で、様々な事業に携わります。
    1870年、鉄道敷設のために横浜港埋め立て事業を行い、1871年には横浜と函館間の郵便船を運行を実現します。
    愛知セメント株式会社を設立や帝国貯蓄銀行の開業にも関わったほか、学校建設など公益性の強い事業に多く携わりました。

    高島易断

    晩年は実業家としての活動を続ける一方で占術の研究にも励み、自身の成果を「高島易断」として発表します。
    1914年、自らの死期を悟って位牌を用意したました。
    そして、81年の生涯を静かに終えました。

    高島嘉右衛門の先見性

    引用:Wikimedia

    顧客のニーズを先読みする

    高島嘉右衛門の数々の偉業は顧客のニーズを読み、相次いで行動を起こす商才によるものでした。
    小さな港町に過ぎなかった横浜の発展に必要なものを相次いで先読みし、その導入に尽力します。

    開港直後の横浜に洋館建設のニーズがあったことを知った彼は通訳を破格の金額で雇い、建設の受注を取り付けます。

    また、横浜に建設が国内外の要人を饗応するための施設がないことに着目した高島嘉右衛門は、旅館「高島屋」を建設し、高島屋はその目的を大いに果たしました。

    広い視野による先見性

    明治維新直後に彼は自国資本による鉄道敷設の重要性を伊藤博文、大隈重信に訴えました。
    そして、線路短縮の為に山を切り崩して埋め立て、今日のみなとみらい地区一帯を築き上げました。

    また、その後はガスの必要性を見抜き、「横浜瓦斯会社」を創設し、日本で初めてガス灯を横浜市に灯します。

    活躍の場はインフラの建設に留まらず、外国語の重要性に着眼した高島学校の設立、定期輸送の需要に着眼した横浜~函館航路の創立、また、人の営みに不可欠との考えから遊郭の創設にまで携わりました。

    彼自身の事業は必ずしも身を結ばず、破産した記録も残っています。
    ただし、彼が着手した事業の数々は今日の横浜、日本の繁栄に大きく貢献するものでした。

    日本初の鉄道は日本人の資本により、今日の新橋駅から桜木町駅を結んで開通し、沿線は大いに発展しました。
    また、ガス会社は後の横浜市瓦斯局へと発展し、東京ガスと合併して今日に至りますが横浜のインフラを大いに担っています。
    学校や定期航路に関しても、現代においてその必要性は言うまでもありません。

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    高島嘉右衛門の格言

    高島嘉右衛門の決意や生き様を示す格言を紹介します。

    尽く易を信ずれば則ち易無きに如かず

    死の数日前に突然語ったとされています。彼は事業家としてだけではなく、高島流易断の創始者としても有名ですが、占いを盲信するのではなく、自分で考え、判断することの重要性を説いたと考えられます。1

    我元と罪なし故らに越獄するを用いず

    投獄生活中に脱獄を持ちかけられ、断った際の言葉です。
    計画は露見し未遂となりますが、後に減刑されて出所し横浜に移ります。
    本人は出所が近いことを読んでいたのでしょう。2

    引用:wikimedia, 『横浜電気株式会社沿革史』横浜電気株式会社

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    高島嘉右衛門が好んだもの

    高島嘉右衛門が普段、好んだものや手元に置いたものは、どういうものだったのでしょうか。
    彼が愛着を持ったものからは、彼の思想や生き様を感じられます。

    易経

    東洋占術の起源として知られる古書です。
    獄中生活中に発見し、易経を改めて学んだ彼は後年、それを自身の決断によく用いました。
    また、著名人からの相談にも活用したといいます。

    高島易断

    晩年に、易占に関する研究に没頭した高島嘉右衛門は、その思想を「高島易断」としてまとめます。
    その言葉は日本における占いの代名詞として今尚用いられています。

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    高島嘉右衛門を更に知る方法

    高島嘉右衛門を更に知る書籍を紹介します。

    「横浜」をつくった男

    高島嘉右衛門の生涯を描いた、小説仕立ての書籍です。

    現代語訳 呑象 高島嘉右衛門著 高島易斷

    「高島嘉右衛門による占いの見立て」と「高島嘉右衛門が占いを立てた事例」について、高島易斷を研究する著者が現代語訳で解説されています。

    まとめ

    高島嘉右衛門が成し遂げた数々の偉業については、彼以外の誰かによっていずれ成し遂げられたかもしれません。
    しかし、彼の存在抜きではその全てが明治維新から僅か数年以内に達成されることはなかったように思われます。

    並外れた行動力とニーズを読む力が周囲を動かし、横浜市を今日の発展へと導く礎となりました。

    横浜市を訪れる際には、彼の数々の業績に思いを馳せながら歩いてみるのも良いかもしれません。

    参考資料

    • 高木彬光 『「横浜」をつくった男 – 易聖・高島嘉右衛門の生涯』 光文社
    • 『実業家奇聞録』 実業之日本社 (国立国会図書館)
    • https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777995/54
    • はまれぽ.com『横浜の父! 高島町の名前の由来にもなった「高島嘉右衛門」ってどんな人だったの?』https://hamarepo.com/story.php?story_id=3222
    • 横浜都市発展記念館『維新の起業家・高島嘉右衛門(かえもん)』http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/hamaN/hamaN18.html
    • 持田鋼一郎『高島嘉右衛門と「高島易断」』 有隣堂
    • https://www.yurindo.co.jp/yurin/15263/2
    1. 高木彬光『「横浜」をつくった男 – 易聖・高島嘉右衛門の生涯』 光文社 ↩︎
    2. 国立国会図書館アーカイブス https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777995/54 ↩︎
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