日本で「最後の相場師」と呼ばれた是川銀蔵。住友金属鉱山の株式を買い占め巨額の利益を上げ、1983年に発表された高額納税者番付では全国1位に輝いた事がある一方、是川氏が亡くなった後に残されたお金はほぼ無く、遺産と呼べるものはほとんど無かったと言われています。この話を聞いただけでも「投資家」という言葉より「相場師」と形容するには十分かもしれません。それ以外にも
・「相場師一代」という書籍を出版
・「カメ三則」「投資5ヶ条」を考案
・是川奨学財団を設立
など投資の世界に限らず、後進の為にも尽力した人物でした。兵庫県の貧しい漁師の家庭で生まれた是川銀蔵。今回は、そんな是川氏がどのような投資手法で成功を収めたのか、また投資に対する考え方・生い立ちを見ていきましょう。
- 貧しい漁村に生まれ、16歳で満州で商売を始め、朝鮮半島などで事業行い、動乱の時代の中、失敗と成功を繰り返す
- 34歳から株投資をはじめ、住友金属鉱山の株取引で200億円の利益を上げたことで1983年に長者番付1位になる
- 地道な独学を行い、大きな収益を得ても生活は質素であり、社会福祉事業にも力を入れた
- 目次
- 生い立ち
- 投資スタイルとは
- 投資の格言
- もっと詳しく知る方法
是川銀蔵氏の生い立ち

是川氏は1897年に兵庫県赤穂市の貧しい漁師の末っ子として誕生しました。是川氏が3歳の時に神戸市へ引越し、14歳で貿易商の好本商会の丁稚となります。その後、貿易会社が倒産し、第一次世界大戦が勃発します。是川氏がロンドンを目指して出国する最中のことでした。是川氏はロンドン出国を諦め、中国で軍との商売を始め、食料品などを扱い利益を上げていきます。1915年に贈賄容疑で逮捕された事もありましたが、この際は未成年であった事を理由に無罪放免。
その後は、中国の青島で現地通貨を金属資源として売却する商売を始め、若年実業家になりましたが、時勢により1916年に倒産します。1919年には大阪へ転居し、大阪伸鉄亜鉛メッキ株式会社を設立します。1923年には関東大震災に際して、バラックの需要を見越してトタン板と釘を買占めて利益を得ました。しかし、1927年には昭和金融恐慌等により倒産し、事業からは引退を決めます。
本格的に投資の世界へ踏み込んだのは1931年、是川氏が34歳の時でした。投資の世界に入った是川氏は辣腕をふるい、70円の元手を年末には100倍である7,000円まで増やします。1933年には昭和経済研究所(是川経済研究所)を設立して投資研究を行いました。1935年に商品先物で「綿」の凶作を見越して綿を買い、昭和綿花株式会社と仕手戦を戦いましたが、今度は1万数千円の損失を受けます。
1938年には日本の鉄鋼資源の開発に緊急性を感じ、軍事力朝鮮半島で是川鉱業を設立し、1943年には是川製鉄株式会社を設立します。戦後には、国策会社を経営していたことから、朝鮮警察に逮捕されるが、釈放されました。日本へ戻り、1946年には食糧問題を解決するための是川農業研究所を設立します。
投資資金を集める為に土地投機を始めます。1960年、大阪府の泉北ニュータウン開発の土地投機により巨利を得ました。ここで数億円の利益を獲得した後、株式投資の世界へ再び舞い戻ってきました。 1970年後半から1980年にかけて、株投資で多額の利益を得ました。日本セメント、同和鉱業、不二家、丸善石油などの株買占めにより相場師として有名になりました。
ここまでの略歴を読むだけでも「相場師」と言う名前が当てはまりますが、是川氏が”相場師”と呼ばれたのは何と言っても「住友鉱山株」の買い占め。住友鉱山株を買い占めた結果、是川氏は200億円もの利益を獲得したと言われています。1983年には長者番付1位になりました。前出の文章だけを見ると株式投資だけで成功したようにも思えますが、是川氏がこれまでに経験した様々な苦労・失敗が200億円と言う利益を生んだとも言えそうです。
波乱万丈な相場師 是川氏の投資スタイルとは

波乱万丈な相場師であった是川氏はどのような判断基準を用い株式を購入していたのか、その手法について紹介していきます。、是川氏が生前遺した「投資5ヶ条」と「カメ三則」の中から、特に参考になるであろう手法をピックアップし紹介していきます。
銘柄は自分で勉強し選ぶ
裏を返せば、他人がすすめる銘柄に手は出すなと言う事でしょう。現代で言えば、株の専門誌や経済誌などに踊らされる事なく、自分で調査した銘柄こそ買いだと読み取れます。”相場師”と呼ばれた是川氏ですが、とても堅実に投資先を選んでいた事が伺えます。投資の世界で有名なピーター・リンチ氏も「調査なしで投資する事は、手札を見ないでポーカーをするのと同じだ」と説いているように、投資で成功する為に投資の勉強・調査することが必要不可欠だと分かります。
過大な思惑はせず、手持ちの資金で行動する
現代風に言い換えれば「リスク管理を徹底する」「自分を律する」と読み替える事ができるでしょう。お金が絡んでくる投資の世界では、自分を律する事がとても難しい場所だと言われます。欲望や思惑が複雑に絡んでいる投資という世界で自分を律する事はとても大事ですし、必要以上のリスクを(例えば生活費に手を出してしまったり…)取らず手持ちの資金で行動する事は投資家としての自分を守ることにも繋がるでしょう。
値上がり株の深追いは禁物
是川氏は「株価には妥当な水準があるので、値上がり株の深追いは禁物」という言葉を遺しました。極端な例で言えば、業績は軒並みマイナスなのに株価は急上昇している銘柄などの深追いは禁物だという事です。また、是川氏は「株価は最終的に業績で決まる」という言葉も残しているように、業績以上の株価になっている銘柄は敬遠すべきだと考えていました。
不測の事態などリスクはつきものと心得る
投資の世界では、突然株価が暴落するというリスクは常につきまといます。リーマンショックやコロナショックにより株価の急落などが挙げられるように、投資というのは常に「お金を減らしてしまう」という危険があります。だからこそ、先ほど述べたように「過大な思惑はせず、手持ちの資金で行動する」事こそが大事だと是川氏は説いています。
投資の格言
是川氏が投資に対してどのような考えを持っていたのかが最も分かるであろう投資に関する格言を紹介します。独特な投資哲学を思い起こさせる言葉ばかりです。
- 株価が大天井を打つ時は、不思議に高値乱高下の現象を起こし、その後、総買い相場で大天井を構成する。
しかも大天井を打てば、必ず株価はすぐに暴落する。
出典:相場師一代 - 情報だけを見ていては間違うことがある。「情報の中にはデタラメがある」からなのだ。
出典:相場師一代 - 相場の道、すなわち、孤独に徹すること、そして俗世に超然とし、挙世滔々として「西に走る時、われひとり東に行かん」という気概と信念こそが、その時の私の判断だった。
出典:相場師一代 - ボロ株といわれ世間が見向きもしない時に、水面下で安い株を拾い集めて、じっと育つのを待つ。自らの投資哲学を信じ、忠実に行動し、信念を貫き通したこと。
出典:相場師一代 - 人にも語らず、自分も二度と思惑を廻らすことなく、迅速に買い出動を実行に移すことが投資戦術の鉄則である。
出典:相場師一代
まとめ
「最後の相場師」と呼ばれた是川銀蔵でしたが、投資手法を見るとかなり堅実な手法で株式投資と向き合ってきたのかが分かります。是川氏が残した言葉をまとめると「学習する事、研究する事、そしてリスク管理をする事」の3つに分けられるでしょう。